1コリ  14章26節
14:26 それでは兄弟たちよ、どうなのですか? あなたがたがいつも集まるときには、それぞれの人に詩が1あり、教えがあり、啓示があり、異言があり、解釈があります。すべての事を、2建造のために行ないなさい。
14章26節 フットノート1

この節で五回繰り返されている「ある」は、ギリシャ語では広く使われており、多くの意味を持つ言葉です。そのうち次の三つがおもなものです。(1)(あるものを)保持する、所有する、守る。(2)(あるものを)享受として持つ。(3)ある事を行なう手段、力を持つ。初めの二つは、この節に挙げられた五つの項目の初めの三つに適用されるべきであり、第三のものは、後の二つ、異言と異言の解釈に適用されるべきです。これは、わたしたちが召会の集会に来る時、人に分け与える主の何かを持っていなければならないことを示します。それは、主を賛美する詩、キリストの豊富を供給して、人を成就し養う(教える者の)教え、神の奥義であるキリストと、キリストの奥義である召会に関する、神の永遠の目的の幻を与える預言の啓示(30節)、未信者がキリストを知って受け入れるための、彼らへのしるしとなる異言(22節)、キリストと彼のからだに関する異言を理解できるようにする解釈です。わたしたちは集会に来る前、主を経験したことや、主の言葉を享受したことや、祈りの中で主と交わったことなど、主から来た事柄、主についての事柄で、その集会のために自分を準備すべきです。わたしたちは集会に来たなら、霊の感動を待つ必要はなく、待つべきでもなく、自分の霊を活用し、訓練された思いを用いて、機能すべきです。そして準備してきたものを、主の栄光と満足のために主にささげ、参加している者たちの益のために、すなわち、彼らが照らされ、養われ、建造されるために、彼らにささげるのです。
 これは、古代の仮庵の祭りのようです。イスラエルの子たちは良き地の産物、すなわち彼らがその地で働いて収穫した物を、祭りに携えてきて主にささげました。それは、主との交わりと互いの交わりの中で、主に享受していただき、また互いに主の御前で享受するためでした。わたしたちは、わたしたちの良き地であるキリストの上で労苦して、彼の豊富から幾らかの産物を収穫し、召会の集会に携えてきて、ささげるべきです。このようにして、召会の集会は、キリストの豊富の展覧となります。そして全員が神の御前で、神と共に、分け与えたキリストを互いに享受して、聖徒たちと召会が建造されていくのです。
この書簡で強調し、重んじていることによると、この節に挙げられた五つの項目はすべて、わたしたちの分け前としての神の中心であるキリストと、わたしたちの目的としての、神の目標である召会に焦点づけられるべきです。詩は、わたしたちの日常生活と召会生活での知恵と力としてのキリストを与えておられる神を、賛美するものであるべきです。教える者の教えと預言者の啓示は、キリストと、キリストのからだである召会を人に教え、供給すべきです。異言とその解釈も、キリストと召会をその中心と内容とすべきです。キリストと召会以外のどのような事柄も強調するなら、召会に混乱をもたらし、神の新約エコノミーの中心路線から召会をそらして、コリントに在る召会のようにするでしょう。


JGW日本福音書房 :ウオッチマン・ニーとウイットネス・リーの務めを出版する書房