マルコ  2章1節
2:1 日の後、1イエスは再びカペナウムに入られたが、2家におられることが知れ渡った。
2章1節 フットノート1

第2章1節から第3章6節(2:13:6)で生き生きと記録された五つの出来事は、一つの特別なグループを形成しています。それは、神の奴隷としての奴隷―救い主が、いかに彼の福音の奉仕を遂行して、堕落した人々、すなわち、神と神の享受からサタンによって捕らえられた人々の必要を顧みられたかを見せています。それは、彼らが捕囚から救い出されて、神の享受に連れ戻されるためでした。
 (1) 彼は神聖な権威を持つ神として、病気にかかった者の罪を赦されました。それは、彼らをサタンの圧迫から解放し(使徒10:38)、神へと回復させるためでした。聖書学者たちは、これを自分たちの宗教の神学に反するものと考えました(1―12節)。
 (2) 彼は病気でみじめな人々のための医者として、自分の民族に不誠実で不忠実な取税人や、社会から孤立し、さげすまれた罪人と共に食事をされました。それは、彼らが神のあわれみを味わい、神の享受へと回復されるためでした。これは、自らを義とする者たち、無慈悲なパリサイ派の聖書学者たちによって、罪定めされました(13―17節)。
 (3) 彼は婚宴の部屋にいる子たちと共にある花婿として、彼に従う者たちに断食させず、楽しませ喜ばせられました。こうして彼は、ヨハネの弟子たち(新しい宗教家)とパリサイ人(古い宗教家)の習わしを廃棄されました。それは、彼に従う者たちが、彼らの宗教の習わしから、彼らの花婿である神のキリストの享受の中へと救われ、神の新約エコノミーの中で、彼らの外側の衣としてのキリストの義と、内側のぶどう酒としてのキリストの命を持つためでした(18―22節)。
 (4) 彼は彼に従う者たちが、安息日に麦畑の麦の穂を摘んで、飢えを満たすことを許されました。こうして彼らは一見、安息日に関する神の戒めを破りましたが、実際は神を喜ばせたのです。なぜなら、ダビデと彼に従う者たちの飢えが、神の家の中の供えのパンで満たされたように、奴隷―救い主に従う者たちの飢えが、キリストを通して満たされたからです。これは、神の新約エコノミーにおいて、宗教の規定を守ることではなく、真の安息日の安息としてのキリストの中で、キリストを通して満足を享受することが重要であることを示します(23―28節)。
 (5) 彼は安息日に、片手のなえた人をいやされました。彼は、安息日を守ることではなく、彼の羊の健康を心にかけておられました。こうして彼は、神の新約エコノミーの中では規定を守ることではなく、命を分与することが重要であることを示されました。このために彼はパリサイ人、すなわち宗教家たちに憎まれました(3:1―6)。
 奴隷―救い主が取られた五つのあわれみ深い生きた道はすべて、彼の福音の奉仕を遂行し、形式的で伝統的な宗教に相反しました。ですから、肉的で、頑固で、命のない宗教的な指導者たちに忌み嫌われたのです。


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