マルコ  1章1節
1:1 4神の子3イエス・キリスト2福音の1初め.
1章1節 フットノート1

この福音書の著者はマルコです。彼はヨハネとも呼ばれていました(使徒12:25)。彼は何人かのマリヤたちのうちの一人の息子であり(このマリヤはエルサレムに在る召会で、使徒ペテロと親密であった―使徒12:12)、バルナバのいとこでもありました(コロサイ4:10)。彼はバルナバとサウロの務めに同行し(使徒12:25)、異邦人に対するパウロの務めの最初の旅行にも同行しました。しかし彼は、ペルガでパウロを離れて帰ってしまいました(使徒13:13)。このために、パウロは二度目の旅行にマルコを連れて行くことを拒絶しました。その時にバルナバはパウロから離れ、そしてマルコはバルナバの働きに加わりました(使徒15:36―40)。しかしながら、マルコは晩年のパウロとは親密で(コロサイ4:10ピレモン1:24)、パウロの殉教に至るまで、その務めに役に立つ者となりました(IIテモテ4:11)。彼は、おそらく継続的に、ペテロの近くにいたと思われます。なぜなら、ペテロは彼を自分の息子と考えていたからです(Iペテロ5:13)。召会の初期から、彼の福音は、ペテロの口述を筆記したものと考えられてきました。ペテロは、救い主が福音の奉仕をした時、最初から(16―18節)最後まで(14:54,66―72)つき従っていた人です。マルコの記録は、歴史的順序にしたがっており、他の福音書よりも多くの歴史的事実の詳細を述べています。福音書全体は、使徒行伝第10章36節から42節(使徒10:36―42)にあるペテロの言葉に要約されています。
 ヨハネは神―救い主を提示し、その人性における救い主の神性を強調しています。マタイは王―救い主を、マルコは奴隷―救い主を、ルカは人―救い主を提示しています。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書は、共観福音書と呼ばれています。それらは、さまざまな面における、救い主の人性、またそれに伴う彼の神性を描写しています。マルコは救い主を奴隷として提示するので、キリストの系図と地位を告げていません。奴隷の家系を述べても、何の意味もないからです。天の王国に関する救い主の驚くべき教えやたとえを提示するマタイと、神聖な真理の深遠な啓示を提示するヨハネは、マルコと対照的です。マルコの意図は、奴隷のすばらしい言葉でわたしたちを印象づけることではなく、彼の福音の奉仕における、その卓越した行為でわたしたちを印象づけることです。マルコによる福音書は、他の福音書よりも多くの詳細を提供しています。彼は多くの詳細を提供することによって、神のために、罪人に対して尽くされた救いの奉仕における、奴隷―救い主の勤勉、信実、その他もろもろの美徳を描写しています。マルコによる福音書には、イザヤ書第42章1節から4節(イザヤ42:1―4)、6節から7節(イザヤ42:6―7)、第49章5節から7節(イザヤ49:5―7)、第50章4節から7節(イザヤ50:4―7)、第52章13節から第53章12節(イザヤ52:1353:12)で述べられている、エホバの奴隷としてのキリストに関する預言の成就があります。また、ピリピ人への手紙第2章5節から11節(ピリピ2:5―11)にある、神の奴隷としてのキリストに関する教えの詳細があります。彼の労苦に見られる彼の勤勉さ、彼が食物と休息を必要としたこと(3:20―216:31)、彼の怒り(3:5)、彼のうめき(7:34)、彼の愛情(10:21)は、その美徳と完成における彼の人性を美しく表示しています。もう一面で、彼の主権(2:28)、彼の全知(2:8)、彼の奇跡的な力と、悪鬼どもを追い出し(27節3:15)、罪を赦し(2:7,10)、風と海を静める(4:39)彼の権威は、その栄光と誉れにおける彼の神性を完全に現しています。何という神の奴隷でしょう! 何と愛すべき、敬服すべき方でしょう! そのような奴隷が、奴隷―救い主として罪人に仕え、ご自分の命を罪人の贖いの代価として(10:45)、彼が奴隷となっておられる神の永遠の目的を成就されたのです。


JGW日本福音書房 :ウオッチマン・ニーとウイットネス・リーの務めを出版する書房